多重人格とはいかなるものか、その症例がはじめて報告された頃から現在にいたるまでを、非常に広い視野から辛口に分析する本。
その語り口は辛口というより、もはや辛辣の域へと達していて、この人はこんなに暴言を吐いて業界から総スカンを食らったりしないのかしらと心配になるほどだが、幸いなことに(?)筆者は医者でもカウンセラーでもなく哲学家なのだそう。ならば安心。(なのか?) 辛辣といっても、何もかもに噛み付いている訳ではなく、用語の用い方や過去の文献の引用の仕方に対して厳密さを求めているだけで、むしろその態度は学者としては正しいはずだ。 本書を読んでわかったことは、多重人格という精神病の症例が、決して単なる個人の精神の異常ではなく、社会のあり方と密接に関係しているものであるということだ。 最初の多重人格の症例の報告は18世紀の後半であるが、当時はそれは<多重人格>とは認識されておらず、躁鬱病の極端なもののように思われていた。それが明らかに異なる複数の人格の様相を患者が見せ始め、<二重人格>という発想が生まれ、それがあるとき二重を越える<多重人格>へと発展し、やがてはひとりの人間の中に100もの人格断片が認められることまでが起きるようになった。 それはカウンセラーや医師の側の認識の変化によって導き出された症状でもあるが、それ以前に物語や風説によって、患者の側に事前に多重人格という症状に対する知識が存在し、どのように振舞えばいいのかを患者が知っているから症例が増えるともいえる。 しかしそれはすべての多重人格者が偽者だということを意味しない。患者が自らの異常を外部に訴えるためにいかなる手段を用いるかの、ひとつの可能性を社会は提供したにすぎない。 そして、この異常が何を原因として発生するかということについても、社会情勢の変化は色濃くその影響を落としている。 過去にはそれはヒステリーの産物だといわれた。それが後には戦争の後遺症だといわれ、現在では幼児虐待が遠因だということになっている。 しかしこの幼児虐待という用語そのものが、過去には存在しなかった。セクハラと同じで、ある頃から一線が引かれ、こういう態度はいけないと過大なまでに声を大きくして叫ばれるようになっている。 確かに幼児虐待はいけないことだ。誰に聞いてもそれは良くないという答えが返ってくるだろう。不快で陰惨な犯罪である。しかしそれが多重人格の原因であると、大人になってから自らの親を訴える子供たちは、果たして自らの過去を正しく思い出しているのか。 記憶とはあいまいなものである。催眠術などを用いて思い出される記憶というものの信憑性の疑わしさは、あえて語るまでもないが、それにも増して長い年月が経過した後の<過去>そのものの文脈が、現在とは異なってしまっている。 現在では犯罪とされるようなある種の行為が過去のある時代においてはまったく犯罪ではなかった。そんなことは往々にしてある。 日々、人の記憶は書き換えられる。 そして同時に社会というもの、ひいては時代というものも刻々と移り変わる。 多重人格というものの取り扱いも、そうした中で決して一定ではなく、流行もあれば廃れもする。 時代時代の文脈を読み解かなければ、こうした精神医学上の症例も、その本質を理解することはかなわない。 まとめるとこんな感じですかね。面白かったけど、長い本でした。
by agco
| 2005-06-22 23:21
| ノンフィクション
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