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「陋巷に在り 1 儒の巻」 酒見賢一

昨年11月に最終巻(13巻)が文庫になったこの大長編。ちょうどその頃、ぶらりと寄った本屋のポップにわたしは衝撃を受けたものだった。

孔子の弟子・顔回を主役としたサイキック伝奇小説!

みたいなことが書いてあったのだ。(うろおぼえ)
えっっ。サイキック!?
まじめな歴史小説だとばかり思っていたので、かなり意表をつかれた。と同時にかなり気になったので、とりあえず一巻だけでも読んでみることにした。酒見賢一を読むのは久しぶりである。
ええ、それで結論から言うと、確かにサイキックと呼んで呼べなくもない能力や技術は出てくるが、それをサイキックと言ってしまうと、かなりイメージ的に間違うことになってしまうだろう。

儒教あるいは儒学といわれる学問・思想を起こした孔子以前にも、「儒」と呼ばれるものは存在し、それは古代からの祭祀や呪術を司る職業あるいは身分、異能を備えた人々のことであった。意味の似た言葉には「巫」があり、巫儒とひとくくりに呼ばれることもあった。孔子以後の儒と区別して、これを「原儒」と呼ぶことにする。
孔子はそもそもはこの原儒であった、とすることから話は立脚する。
当時はまだ呪力や鬼神が本気で信じられている時代であり、また本書はそれらを実在するものとして扱っている。そのため確かにサイキックに相当する能力が様々に登場し、ごく当然のごとくに使われる。
しかしこれはとてもまじめな歴史小説でもある。
孔子とも関係の深い儒の一族である、顔氏の中の逸材である顔回は、生まれながらに鬼神を見、特異な能力を操る青年である。第一巻である本書では、顔回と孔子のふたりを中心に、史実にある魯国の政変が、他国とのかかわりの中で丁寧に語られている。勿論フィクションであるから歴史上の出来事ばかりでは終わらないが、本書の中には儒というものを真摯に捉え、史実に忠実にむきあいながら、隠された真実を読み解こうという作者の姿勢が感じられる。
顔回という人は非常に有能であるのに無欲でかなり天然で、とても気になる人物である。
実は私は儒学というものと今ひとつ気が合わず(老荘の方がよっぽど好きだ)、論語なんか未だかつて最後まで読めたためしもないのだが、本書の行き先は気になるので、そのうち時間をみつけて続きも読んでみたいと思う。
by agco | 2005-03-24 22:47 | 伝奇・時代・歴史
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あまりに自分の忘却力がすごすぎるので、面白かったものも面白くなかったものも、とりあえず読んだ本の感想を全部記録してみることにしました。コメントなどありましたらご自由にどうぞ。
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